受け入れられない「喜び」


前にぼ〜っとテレビを見ていたら、「こんな世界の普通になるな!」っていう文字を抱えた人たちが映ってるCMがあった。
何のCMだったかは忘れてしまったが…。
そのCMに「おいては、その言葉にどれだけ深い意味を込めてるかは知らないが、
心の中でそう思っていても、まだまだ普通という言葉に縛られている人は多いのではないだろうか?

俺が思うに、変になろうとして変になってるヤツは少ない。
「普通はこうだ」という概念に縛られずに、自分自身で様々な疑問に色々な視点から答えをだした結果、「普通では無かった」という事だと思う。
変になろうとしてる「変なヤツ」がいるとしたら、それは「変」であるコトがカッコイイと思ってるヤツくらいであろう。
つまり、広い視野を持って物事を考えるという、俺から言わせれば当たり前のコトをやってるヤツが、世の中では「変」と言われてるように見える。

 やはり世の中「変」なヤツは疎外される。
そして「変」なヤツも「普通」の悪い部分が見えていながらも、
悲しいコトに「普通」と共有意識を持ちたがる、もしくは持たなければいけないという意識を持っている人が多く、
それ故に傷ついている人も多いと思われる。
それはおそらく「普通」と共存しなければ社会的、経済的にも生活しにくいという事もあるが、
「普通」と接する機会がもっとも多いこの世の中で「変」という自覚を持って生きる事で孤独を感じるのが怖いのではないだろうか?
そしてその「普通」と「変」とのジレンマが、心に傷を負わせるコトも多いのではないだろうか?

 ここで俺の話になるが…
俺は社会性も無い、おそらく「変」なヤツであると思うが、ほとんど孤独感を感じた事が無い。
多分その所以は「自分のコトが好きすぎる」からであろう。
大好きな人と二人でいると、孤独感というのはそうそう感じないモノだ。
しかし俺は一人でいる時もその意識がある。
つまり、自分という存在があって、その胸の奥に「理想の自分」というモノがあって、
自分は常に「理想の自分」を追いかけて、追いついてもすぐに離されて、また追いかけて…
そんな自分が大好きなのだ。
その意識が、きっと俺に孤独を感じさせないのだと思う。

 しかもそれでいて俺には大好きな友達が結構沢山いる。
別に「俺が多くの人に愛される素晴らしい人間だ」と言っているのではない。
俺はいつも自分を偽らずに開放して生きてるつもりだから、人から見たらとても単純で解りやすい人間なんだと思う。
それがセンサーになって、個性の強い人や自分と似たオーラを纏ってる人、自分に興味を持ってくれる人が自然と集まってくれる。
そして俺は当然自分を愛しているから、それらの共通点のある人の事も愛せる、だから友達が多いんだと俺は考えている。

 こんなアホな俺だから孤独感や疎外感を全く感じずにいれるワケだが、
やはり多くの変な人は「自分を開放する」という行為を恐れているのではないだろうか?
そりゃ変な人が自分を開放すれば、多くの「普通」の人には受け入れられず、蔑まれてしまうであろう。
しかし自分をさらけ出す勇気が無ければ心の通い合う友達も見つかりにくいし、
「普通」に受け入れられようとすればするほど自分を押し殺してしまうハメになり、心の傷も深まってしまうだろう。

 俺なんかはむしろ、受け入れられない事にもまた別の喜びを感じる。
「普通」に染まりきった人に「蔑まれる」事によって、自分の個性を強く感じる事ができるし、
「ああ、俺は普通に染まっていない純粋な人なんだ」と実感する事もできる。
そしてその為には、自分に自信の持てる生き方をしなければならないので、自分へのよい鞭にもなるのだ。

 みんな、どうか受け入れられようという意識を捨てて、自分に正直に生きて欲しい。
そして自らの力でその傷を癒して欲しい。
受け入れられる様に生きるのではなく、
自分の好きな個性を貫いた結果どういう受け入れられ方をするか試す、その方がきっと面白いと思う。
常識に捕らわれずに自分を開放している人ならば、いつかきっと「普通」に染まっているよりももっと居心地のいい場所が見つかるハズ。
それまで疎外感や孤独感に負けず、どうか変な自分を愛してやってほしい。
そして「受け入れられない喜び」を持って、強く生きて欲しい。

俺も、この言葉を証明し続ける為にも、いつまでも笑顔を忘れず、自分を愛し続けて生きるから。



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