伝わりにくい言葉



 人は、人に自分の気持ちを伝えながら生きている。
そしてその手段として一番使われるのは当然「言葉」である。
しかし言葉というのは非常に伝わりにくく、時として「感情」や「状況」などの力を借りなければ、実に無力なものだ。
そして感情というものも当然人それぞれで、他人に分かりやすく出る人もいれば、内面から出てこないままの人もいる。
前者の人はそれほど苦労は無さそうだが、、後者の人は一体どうすればいいのだろう?
涙ひとつでも流さなければ人には伝わりにくいのだろうか?
それが流せればその人達に苦労はないのに。

 なぜ「言葉」(もっと言えば日本語)はそこまで無力なのだろう?
なぜ同じ言葉を発しても、こんなにも伝わりやすさが違うのだろう?

 答えはきっと「言葉の軽量化」にあると思う。
試しに誰もがよく使う「ありがとう」「すいません(ごめんなさい)」「愛してる」、これらの言葉を辞書で引いてみた。

まず「ありがとう」の意味は「感謝の気持ちを表す言葉」。
そりゃそうだ、そんな事は誰もが知っている。
・・・が、本当に誰もが知っているのだろうか?
本当に誰もが、「感謝の気持ちを表す」時だけに使っているのだろうか?
それほど感謝していなくても、人は常識にのっとってその場しのぎに「ありがとう」と言うではないか。

 次に「すいません(ごめんなさい)」の意味は「相手に謝るとき、礼を言うとき、依頼をするときなどに言う語」。
そりゃそうだ、そんな事を知らないヤツはいない。・・・が、本当にそうだろうか?
「謝る」の意味は「自分の過失・罪を認め、すまないという気持ちを相手に伝え許しを求める」であるが、
本当に罪を認め、すまないという気持ちの時にだけ使われているだろうか?
自分に罪がないと思っていても、人は社会的、常識的作法にのっとって「すみません」と言うではないか。

 最後に「愛してる」。
「対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ」という意味だ。
言うまでもない、日本語を知ってる人なら当然知ってる。
・・・が、そう言い切れるだろうか?
本当に、対象をかけがえのないものと認めている時だけに使われているだろうか?
時には、人を失わないために、
時には、ただセックスをしたいが為だけに、
人は「愛してる」と言うではないか。

 これらの例はみな、自分の心に嘘をついている人達の使い方だ。
本心ではなく、社交辞令や、性欲、他人の目からの防衛や点数稼ぎの意味で、主にこれらの言葉を乱用するのである
(まぁ俺も例外ではなく、ほとんどの人が少しは自分の気持ちに嘘をつくが)。
そして自分に嘘をつくことに慣れ過ぎた人が、世渡りはうまくても、
決して人を本当に愛す事はできないという事は、#3の「常識」でも述べた通りである。

 が、これらの人がマトモな人間にあたえる影響は非常に大きい。
嘘偽りの「ありがとう」や「すいません」等が世に充満すると、当然人はそれらの言葉を軽く見てしまうのだ。
これが「言葉の軽量化」である。
これらの言葉を本心から言っている人達も、偽善者達が使い古してしまったおかげで、軽い意味に取られ、伝わりにくくなってしまうのだ。

 子供の頃、謝るのが苦手だった人は多いと思う(俺はマジでそうだった)。
悪いと思っても、照れくさかったり、悔しくて「ごめんなさい」がなかなか言えないものだ。
そんな子供が自分の意思で「ごめんなさい」「すいません」と言う気持ち、言われる気持ち。
それは本当に重たくて、純粋な気持ちが伝わりあう瞬間だと思う。
それがきっと本当の意味の「ごめんなさい」だと思うし、そんな誰にでもありそうな経験を思い出してみれば、
いかに今の自分が汚れているかに気づくだろうと思う。

 軽い意味で言葉を使うのは社交辞令を用いる場ならばやむをえないが、
それに慣れて、自分で選んだ友達などにも同じように心にもない言葉を軽く使い過ぎるのはやめましょう。
それによってどんどん信用を失い、結局その人自身が自分の心を伝わりにくくする要因となる。
そのことさえ常に認識できていれば、きっと人の気持ちは相手に伝わるハズだと思う。
それでも「伝わっていない」と感じたならば、それは言葉以前に気持ちがないのでしょう。
異性の容姿が自分の好みだと思っただけで、その人の心まで愛しているつもりになっていたりとかね。


戻る