常識


 世の中は常識に流されて生きているヤツが多すぎる。
そして「常識はずれ」な人を卑下するヤツが多い(ちなみの俺は自他ともに認める常識はずれだ)。なぜだろうか?

 俺は小さい頃から「常識」という言葉に押さえつけられてきた。そしてその度に大きな疑問を抱きながら生きてきた。
そしてある時俺は、こういった答えを導き出したのだ。
常識という言葉は、無意味な、弱者の言葉であると。

 常識といっても色々ある。
例えば「毎日歯を磨く」「毎日風呂に入る」、これらは常識である。
そりゃそうだ、毎日歯を磨けば虫歯になりにくいし、毎日風呂に入れば体についた雑菌も洗い流せる。
これらの「常識」は当然意味のある行動であるし、体を洗うということは人間が哺乳類の頃から行っているワケで、
自然の流れの中で生まれた「常識」であると言える。

しかし世の中にはこれらとは違う、他人の美学や思想を押しつけたような、まったく意味を持たない常識がたくさんある。
例えばこんな光景がある。
『コラ!コロッケをお箸で刺しちゃ駄目!』「なんで?なんでお箸で刺しちゃ駄目なの?」『なんでって、そんなの常識でしょ!」。
一般的な親子によく見られる光景である。
ここでの「常識」は、まさに他人の美学的な「常識」である。
そして子供もいつの間にか「常識かぁ、じゃあ守らなきゃいけないんだな」と洗脳されてゆき、それらに対して何の疑問も抱かなくなり、
やがては個性のない、輝きのない、曇った人間へと「退化」してしまうのだ。

 もちろん、それらの「常識」の行為を自分の「美学」にしているなら、それは個性へと昇華されるので問題はない。
しかしほとんどの人間はそれを「常識だから守る」のである。
いったい何なのだろうか?
「私達はそれらの行為の意味、本質を考えたコトもありません。」と言っているようにしか、俺には聞こえない。
そもそもそれらの「意味のない常識」とは、ほとんどが「昔の権力者の美学」である事が多い。
昔の権力者(例えば天皇とか)が自分の地位を誇示するために、下の者(例えば国民)に自分の美学を押し付け、
いつの間にかそれが染み付いて今日の「常識」になったワケである。
つまり、守りたくもない権力者の美学をも守らざるをえなかった時代に生まれた風習、つまり防衛だったのである。
しかし今日の日本は無支配無宗教、自由な思想の時代であり、自分にとって意味の無い風習は切り捨ててもいい時代なのである。
なのになぜ、それらの風習を「常識」として意味無く残すのであろうか?
残したい人だけが残せばいいものを。

 おそらくその理由は二つだろうと俺は考える。
ひとつは「連帯意識」。
人は誰も一人にはなりたくなくて、無理にでも他人と同じ思想を共有するために「常識」に身を染めていくのである。
でもそれは偽り、幻に見える。
自分の個性を100%出して、それで共感できた人間に「友情」「愛情」を感じていく、それが本当の連帯感であり、「友達」「恋人」だと思う。

 もうひとつは「権力意識」。
つまり今の権力者(例えば会社の上司)が、自分の地位を誇示するために、昔の、借り物の美学を押し付けるといコトである。
これは最もタチの悪い人間のタイプであり、こんな人間が多いから、人々は自己防衛のためにそうせざるをえなくなってしまうのだ。
これでは個性も思想もへったくれもない、機械のような世界になってしまうのも無理はない。
自分も他人も、本当に愛するなど絶対にできない。

 これらの理由から「常識」に流されている人が多いと俺は思うのだが、かといって「常識はずれが良い」とも限らない。
ただ「みんながやってないから」などという理由で常識を外れるようでは、そいつも立派な「常識人」だと思う。
俺が言いたいのは、物事をゼロから考え、導き出した答えに美学を感じろといコトだ。
美学という言葉は人それぞれで、「信念」でも「目的」でも「意味」でもなんでもよい。
自分が美学を感じて起こした行動がたまたま常識はずれであっても、何も恥じるコトはない。
むしろ個性を磨き、貫けたコトを誇りに感じるべきだ。
何の疑問も美学も無く常識を守ってるヤツこそ弱者であり、「そんなの常識」としか言い訳できない哀れなヤツなのだ。

 「人を殺してはいけない」
「人を傷つけてはいけない」
これらについて何の美学も答えもない貴方は、立派な「常識人」かもしれませんよ?
そしてそんな貴方はもう殺してしまっているかもしれない。「人の心」「自分の心」を。

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