璃宇的自己愛論

ナルシストという言葉…正確にはナルシシストなのですが、今やこの言葉を知らない日本人はおそらくいないでしょう。
ギリシャ神話の美青年「ナルキッソス」が池に映った自分の姿に恋をし、
池を見続けながら死んでいったという伝説から生まれた言葉「ナルシシズム」。
言うまでもなく自己愛のコトを指し、それを持つ人間、自己愛者のコトを「ナルシスト」というワケです。


そしてこの言葉、元々は「自信過剰」「自惚れ屋」「自己愛性人格障害」といった風な、悪いニュアンスが含まれています。
フロイトなどによって「神経症」としての意味合いで広まった言葉ですから、当然と言えば当然なのですが。
しかしながら今日の日本では、その悪いニュアンスを残しながらも、もっと幅広く、曖昧な認識を持たれるコトが多くなってきました。
そして今や「自己愛者=ナルシスト」という解釈が、一般的になってしまっています。


私は別に「言葉は本来の正しい使い方をするべきだ」などとは思っておりません。
言葉が時代によってニュアンスを変えてゆくのはごく自然なコトだと思いますし、
世が不便を感じれば新しい言葉が生み出されるのは、当然のコトだと思います。


しかし、「自己愛者=ナルシスト」という解釈によって、自己愛そのものに悪いイメージが付きまとっているという現象。
そしてそのイメージを裏付けるかの様に、多くの心理学者が「自己愛を強く抱くコトは人間にとって害である」としています。
これはとても愚かで、哀れな現象であると私は思います。


そもそも、自分を愛さずして、どうして発展性を持てるというのでしょう?
例えば友人や恋人にしたって、愛しているからこそ信頼でき、その人の幸せを願うコトができるワケですし、
子供にしたって、愛しているからこそ自分が思う「素敵な人」に育ってほしいと努力するワケですし、
コレクションにしたって、愛しているからこそ、集めたい、綺麗に磨きたいと思うワケですし。
これらと同じ様に、自分を愛するからこそ、自分をもっと幸せにしたい、成長させたい、磨きたいという力が湧くのですから。


自己愛は、自分に生き甲斐を持たせ、自分を成長させ、夢を叶える、とても大切な力です。
自己愛そのものに少しでも悪いイメージを抱くコト自体がナンセンスです。
愛し方さえ屈折しなければ、強ければ強い程良い。
これが私の理論です。




ではなぜ、世の中の「ナルシスト」と呼ばれる人達が「やっかいな」「扱いにくい」といった風な、
嫌悪感を持たれる存在になってしまっているのでしょうか。
それは、本当の意味で自分を愛してはいないから、
あるいは、愛し方が屈折しているからに他なりません。


子供に例えると、解りやすいと思います。
親が子を育てる時、その方法は理想は数あれど、やはり幸せな、素敵な子に育ってほしいとは思いませんか?
その愛の向け方であれば、きっとその親は愛が強ければ強い分だけ、子の現状や未来を慎重にを考え、
時には誉め、時には叱り、時には諭し、努力しようとするでしょう。
しかし、屈折した愛を持つ親の場合、過保護に育てたり、考える能力や可能性を阻害したり、過剰に束縛したり
名声や名誉を得るコトばかりを強要したり、あるいは虐待したり…
といった風な、結果的には子の為にならない愛し方をしてしまうのです。


ナルシズムも同じです。
真っ直ぐに自分を愛していれば、その愛は力になるハズですが、
屈折した自己愛を持つと、自分を甘やかしたり大事にしすぎたり、思いこみによって壁を作ったり、
名声や名誉を過剰に求めたり、受け入れられないコトに余計に傷ついて挫折したり…。
要するに、自己愛の強さに問題があるワケではありません。
モノの愛し方そのものに問題があるのです。


それともう一つ。
真の自己愛とは、自分と、理想の自分との相思相愛関係で成り立つモノだ、と私は考えています。
一般にナルシストと言われる人間達の多くは、他者からの名声を得るコトや、他人と比べて自分は特別であろうとするコト、
「特別」なのは受け入れられにくいという現実に対して見て見ぬ振りをするコト等に必死になっている、
言うなれば自己愛性人格障害一歩手前、プチ自己愛性人格障害という印象です。
しかしそれは私から言わせれば、ただの臆病者であり、「孤独」ではなく「孤立」してしまっているだけの人間であり、
自己愛者でも何でもありません。


自分と、理想の自分との相思相愛関係。
それはつまり、自分が他者や外の世界を見て得た情報や感覚を元に、理想の自分を築き上げ、
その両者がお互いを奮い立たせ、成長させ、一方が傷ついた時にはもう一方が慰め、
時には誉め合い、時には叱り合い、信じ合う。
そういった風な、人間同士の愛と何ら変わりない愛を自分の心の中に持つコトです。
すなわち、自己愛とは自分の内面で抱く愛であり、
第三者である他者からの名声で保たれるモノではありませんし、第三者に害を及ぼすモノでも無いのです。


もちろん、他者や外の世界からの出来事によって自分が傷つけられたり、理想の自分が迷ってしまったり、
両方が、というコトもあるでしょう。
しかしそれでも、そこに本当の愛があるのなら、信じ合い、乗り越えられるハズですし、
乗り越える過程を経て得た経験によって、より絆の深い関係にするコトが出来るハズです。
それで壊れて挫折してしまう様なナルシストは、
いわば第三者からの噂や中傷などで当人同士の愛まで薄れてしまう軽薄な恋人同士の様なモノです。
つまり、本当の意味で愛してはいない、というコトです。


また、「自分を愛してるからこそ他者からとにかく認められたい」と必死になるナルシスト。
これは、いわば名声や名誉を得るコトばかりを強要している親子の様なモノです。
子の気持ちも考えず、可能性を狭めてまで、名声を得させようとする。
増してそれを第三者にまで強要するとなると、もってのほかです。
つまり、愛し方が屈折している、というコトになるワケです。




少し話しが逸れますが、「ナルシスト」と同じ様に曖昧に使われる言葉として「プライド(誇り)が高い」というものがあります。
これも、自尊心が傷つきやすくてすぐ怒り出す様な、他者にとっては扱いにくい人間に対して、
悪いニュアンスで使われるコトが多い様です。
しかし、誇りを高く持たずして、どうして生き甲斐を感じられましょう?
誇りを持てない生き方をしている人間の、どこが輝いているのでしょう?
一般的に「プライドが高い」と言われている人間のほとんどは、私から言わせれば、
簡単に傷ついてしまう薄いプライドばかりを大事に持ち合わせている、
すなわち、プライドが「高い」ではなく、プライドが「ショボい」という印象です。
アイデンティティが軽薄、とも言えそうです。




話を戻しまして。
私が「自己愛は強ければ強い程良い」という考えの理論、
そして一般的に言われているナルシストの多くが、軽薄な自己愛、もしくは屈折した自己愛しか持ち合わせていない、
という所以を今まで説明してきました。
これが常々私の心の根底にあるナルシズム論なワケですが、
この「ナルシズム」「ナルシスト」という言葉にこれだけの悪いイメージが付いてしまっているという現状、
そして「自己愛」「自己愛者」と言い換えても、やはり同じニュアンスで判断されてしまっている現状は、
私としても少しやるせない気持ちになります。


しかしながら、先ほどお話ししたとおり、言葉というモノは世が不便を感じれば、自然と新しい言葉が生み出されるモノです。
例えば、「幻想」や「空想」を意味する「ファンタジー」という言葉の形容詞「ファンタスティック」、
この言葉のニュアンスに違和感を感じた日本人は「ファンタジック」という造語を作りました。
「ファンタスティック」という言葉は英語では「素晴らしい!」という意味合いを含んでしまうので、それを不便に感じ、
「幻想的な」という意味合いの明確な英語を、日本人は求めたのだと思います。


ところが「ナルシスト」や「自己愛者」が悪いイメージを持たれている現状にもかかわらず、
これらの、良いニュアンスを持った言葉は未だに日本の世には現れていません。
英語にはあるのです。
自己陶酔というニュアンスでなく、健康な自己愛というニュアンスである「self-love」という言葉が。


しかしこの言葉は、日本では未だに心理学の分野以外で使われるコトは少なく、一般的には認知されていません。
なぜ、認知されないのでしょう?
簡単なコトです。
日本が、必要としていないからです。
すなわち、自己愛を持つコト自体に、悪いイメージが定着しているからです。
ナルシズムという言葉が悪いニュアンスの言葉であるコトに、日本人は違和感を感じない様です。
謙虚であるコトを美徳とする日本のお国柄もあるのでしょうか。
自己愛に対する偏った見方は、こんなところにも表れているのです。


これは「自己愛」の追求を生き甲斐としている私としても、色々と語弊が生まれて、不便に感じます。
いえ、おそらく私以外にも、不便だと感じる方がいらっしゃると思います。
例え「self-love」という言葉があっても、その言葉のニュアンスをいちいち説明しなければならない様であれば、
それよりも自分のナルシズム論を説明した方がよっぽど効率的で、明確なワケです。
言葉は伝える為にあるモノですから、意固地になって本来の意味やニュアンスの使い方を押し通しても、
伝わらない以上は無意味です。


少し私の話になるのですが、
どうせ一言では伝わらないのなら、いっそ、というコトで、
私は昨年末頃から自分のコトを「くそナルシスト」と公言する様にしています。
「くそ」という言葉は、「出来損ない」的なニュアンスと、マイナス的な方向へ膨らませるニュアンスがありますが、
どちらのニュアンスで解釈されても、私としては悪い気は致しません。
もちろん、どちらにせよ良いイメージは持たれないワケですが、私自身が良いイメージを持たれたいワケではないので。


しかし、私の様に「不便だ」と感じる程度なら、別段、どうというコトはありません。
既に自己愛の感覚を自分の中で意識出来ている私にとっては、
この「ナルシズム」「ナルシスト」という言葉自体には特に拘りはありませんし、
この言葉のイメージアップを図ろうという意志もありません。
「self-love」や「くそナルシスト」を浸透させようという気もありません、というか「くそナルシストは」絶対に浸透いたしません。
しかし、 たかが言葉、されど言葉です。
感覚的な、ぼんやりした感情であっても、それを言葉で認識するコトによって、
自分を意識でき、迷いが消え、力強く踏み出す意志を持てるコトも、多々あるハズです。
自分を愛するというコトそのものに対する、世の中におけるマイナス的な認識、
これは、健康的な、真の自己愛を持つ人間がこれから生まれ出る妨げになるので、よろしくはありません。




しつこい様ですがとにかく私が言いたいのは、屈折さえしなければ自己愛は強ければ強い程良い、というコトです。
私を見て「いや、貴方の様な人にはなりたくない」とお思いの方もいらっしゃるでしょう。
しかしそれはおそらく、自己愛の強さ故ではありません。
私が今まで得た情報や感覚を元に「理想の自分」を築き上げた結果が、今の私の様な「中性的でありたい」とか、
「好きな人の好きな部分を自分にも取り入れて感じたい」という思想になったワケです。
つまり、なりたい自分の象、愛する対象が、一般的な視点から見てどこか変わっている、というだけのコトです。


自己愛者は社会性が無い、というのも、全くの誤りです。
自己愛を持つコトと、社会性を失うコトは、根本的には全く関係が無いのです。
もちろん、元々社会性や常軌を逸脱したいと考えている人間が自己愛を持つことによって、迷いがふっきれ、
一般の理解を超えたところに行ってしまう、というのはあるかと思いますが。
それも「理想の自分」の質がそうだった、というだけのコトですし、
おそらくそれだけの自己愛も持って逸脱した人ならば、そこで立派に自分なりの生き甲斐を見出すハズだと思います。




人は生きている以上、少なからず夢があり、「進みたい」「幸せになりたい」という欲があり、生き甲斐を感じたいハズです。
それらを叶える力として、最も重要で力強い、人間が持つべき要素、
それが自己愛であると、私は確信しております。
そして表現者を目指す者にとっても、自己愛は、その対極とも言うべき「強迫観念」と双璧を成す、
大いなる表現力の源泉であると、私は思います。





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